公開日 2025年07月25日(Fri)
(出典:『鹿児島県立種子島高等学校創立60周年記念誌(旧種子島高校)』1987.3)
今回は、(旧制中学)鹿児島県立種子島中学校初代校長 野口徳太郎について紹介します。野口校長は,大正15(1926)年に県立第一鹿児島中学校(現鶴丸高校)分校主任となり,分校独立後の昭和6(1931)年まで,校長職を勤めました。
詳しくは次の年譜をご覧ください。野口徳太郎年譜[PDF:180KB]
野口校長は,生没年が不明なため,他より推測しました。年譜によると,明治11(1878)年頃長野県に生まれました。第二高等学校(現宮城県仙台市)旧予科に入学し,予科一部へ進み,卒業後,長野中学校(旧制中学,現県立長野高校)の教諭心得(臨時教員)となって4年間勤めました。
明治38(1905)年東京帝国大学文科大学選科(哲学科)に入学し,大正元(1912)年同本科(哲学科)に進み,同2年に卒業しました。野口校長の同期には著名人が多いです。第二高校時代には,吉野作造(大正デモクラシーでの「民本主義」主唱者),東京帝国大学選科では,岩波茂雄(岩波書店創業者),同本科では,2期上に,哲学者として有名な,九鬼周造(『「いき」の構造』),和辻哲郎(『古寺巡礼』『風土』)などです。
その後東京の私立東京薬学校,成蹊実務学校(同実業専門学校,同中学校,同高等女学校)に勤め,漢文・英語・ドイツ語・物理・化学・理科・博物・歴史・地理等幅広く授業を担当されました。
そのあと,県立第一鹿児島中学校分校,県立種子島中学校(旧制中学)の校長として赴任されました。前後5年間の勤務でした。その後は,不明な点が多く詳細が分かりません。
次に,野口校長の同時代の関係者の言葉から,その人となりを探ってみたいと思います。
まず県立種子島中学校(旧制中学)の第1期卒業(1931)の,井元正流「初代校長野口徳太郎先生のこと」(『種子島高校創立70周年記念誌』)から。ただしこの回想は間々記憶違いがあるようです。
先生は東京府立六中?(現東京都立新宿高校)で教職にあったが,独特の教育理念を持ち,自ら希望して来任されたという。それだけに歴史,道徳教育,礼儀作法には厳しいものがあった。反面年に数回は先生宅でご馳走を振る舞われたという。川瀬一馬『蝸牛』には成蹊学園時代の逸話が載せられている。長野の善光寺を支配した豪族の家筋で,仙台二高の時,弁論大会で中国の「仁道」について論じ,吉野作造よりも名声が高く,以来「仁道君」とあだ名されたという。
その後後藤新平の顧問になったり,種子島中学校校長を勤めたりした。三男一女に恵まれながら先立たれ,晩年は不遇の人生だったようです。最後先生ご夫妻は故郷に戻り,亡くなられたとのことです。
出典:尚志会雑誌 (33) (第二高等学校尚志会, 1898-12)
酒井信平(大正7年入学~同10年,富士銀行検査役・新日本土木常務・鈴峯開発副社長)「私を育んだ池袋の四年」(『成蹊実務学校教育の想い出』 桃蔭会 編 桃蔭会, 1981.2)
「世俗を超越され,清貧に甘んじながらも,ご自分の道を超然と歩まれた野口徳太郎先生(漢文,英語)」
青葉翰於(大正7年入学)「成蹊実務学校教育の思い出」(『成蹊実務学校教育の想い出』)
「野口徳太郎先生は文学士で漢文が本来のご担当であったが,博学の方で後に物理や化学も講義され,その頃著名になったアインシュタインの相対性原理をよく話して下さった。同級生の新見寛君は野口先生の感化で漢文を専攻し一家を成したが,惜しくも沖縄で戦死してしまった。先生は学究肌の好人物でその純粋さから感化力が強かったのだと思われる。私も少なからぬ影響を受けた一人だった」
川瀬一馬(大正8年入学)「大正八年以後の実務学校教育手記」(『成蹊実務学校教育の想い出』)
「野口徳太郎先生には人生観の上で大変感化を受けた。先生は,私が自分の好きな道を歩むよう励まして下さり,お弟子の中村賢太郎先生(化学を教えて頂いた)を通じても私に何としてでも勉学を続けるようにと説得された。(中略)先生の父君が産を成さぬ方であったから家が没落して家族のため先生は随分無駄な苦労をされた様子である。仙台の二高をあともう少しと言う処で退学し,後に物理学校へ学んだりして,東大を出られた。二高在学中,弁論大会で儒教の仁道を論じ,吉野作造などより好評で,「仁道君」とあだ名されたそうである。金華山沖はその頃世界三大漁場の一と言われて暖流寒流の交わる処で,魚類の種類も頗る豊富ゆえ,ヨーロッパの著名な動物学者が網を入れに来日し,先生がその通訳に従事したら,見込まれて先生を連れて帰りたいと懇望されたそうである。それも家のために断らざるを得なかったと言う。聞くだに惜しい話である。そんなことで,先生は和漢洋に亘った蘊蓄が深く,常に精神主義に徹した話をなさった。手を広げて諄々と説かれる先生の姿が今もくっきり浮かび出て来る。」
平野 博(東亜同文書院第24・25期生)「現在のわたくし-人生独白-」(『江南春秋 : 東亜同文書院第24・25期生記念誌』 1980.3)
「成蹊学園の立派な先生方の一人に,野口徳太郎先生がおられた。長髯を蓄えられ,一見長者然とした,また世俗を超脱した哲人風の先生であった。わたくしは野口先生から,物理と漢文の教授を受けた。当時(大正11年)はあたかもアインシュタイン博士の来日があったころで,世間ではいやが上にも相対性原理が騒がれていた時代であった。しかし実際にその理論に通じていた人は,当時はそう多くなかったのではあるまいか。まして中学生のわたくし達にとって,それはお経のお題目に等しかった。野口先生は物理の時間に,相対性原理について,中学生向きの解説を試みられたことがあり,先生はそれほどの学殖の持ち主であられた。しかし,わたくしが野口先生から,一生を通じての強い影響を受けたのは,漢文の講義の方であった。風貌が一見して漢学者に見える先生は,今から考えれば,おそらく気質として漢詩漢文がお好きで,心から打ち込んで勉強されたのであろう。その真髄を何とかして後進に伝えたい,そんなお気持ちから,ご専門でなく,趣味として身につけられた漢学を,進んで教授科目として引き受けられたのではなかろうかと推測する。先生が教室で漢詩,漢文を朗読されるときなど,ご自分の朗誦にご自身酔われる風であった。わたくしは昔の漢学塾などが,こんな雰囲気ではなかったろうかと,ひそかに思ったりした。野口先生のお陰で,わたくしは漢詩漢文が大変好きになった。(後略)」
「井元正清墓碑銘」(西之表お坊墓地井元家墓地)(下野敏見, 鮫島宗美 共編 『種子島碑文集 : 石の文化誌』 第2集 熊毛文学会, 1965)
「(前略)士潔正清は鹿児島第一中学卒業,弟正流は種子島第一回卒業生,野口徳太郎先生は,東京都,中学よりわざわざ赴任したるにて,もっとも教育者らしき教育者なりけり。逸話多し。例えば種子島には石もなかるべしとて,つけもの石を東京より種子島にもたらし給ひけりとぞ。「大日本の南海に」(種子島中学校歌)もこの先生の作詞なり」(鮫島宗美)
右端で椅子に座っている人物が,野口校長です。出典は前掲『60周年記念誌』
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