公開日 2024年04月04日(Thu)
種子島高校の歴史 その3 園原咲哉(也)について
前回に続いて,農林学校時代初期について考えてみます。園原咲哉(也)についてです。
明治38(1905)年3月の第1回卒業生の写真(『鹿児島県立鹿児島実業高等学校創立九十周年記念誌』所集,以下,90周年記念誌)。
前回は不詳としましたが,次の写真を見い出したので,最前列左から3番目の人物であることが判明しました。
30歳頃/1915(大正4)年(写真提供・園原謙氏)
70~80歳代か。琉球新報「顔」から
出典:髙林市治「園原咲也先生の生涯-沖縄を緑の島によみがえらせ,国頭村辺土名の土 と化した-」(『信濃教育』1208,1987年)
以上の年譜により,園原咲哉は,明治18(1885)年長野県生まれ,明治37(1904)年木曽山林学校卒業後,18歳ですぐに郡立種子島農林学校に雇(臨時教員)として就任。以降8年間勤務し,その後沖縄県農林技手となり,沖縄県植物学の父となった。種子島で,現地の山崎フミさんと結婚し,長女夕子をもうけた。種子島に因み,その名も「タネコ」です。さらに二女の「リュウ」は,琉球(沖縄)由来でしょうか。
2020.7.31付『琉球新報』によると,「天真爛漫、やんばるの自然児。さまざまな逸話がある人であった。北部農林高校で長年教えた園原咲也さんのことである。1981年7月に95歳で亡くなった。教え子は親しみを込め「タンメー」と呼んだ」「地域の中学生の間で「北農(北部農林高等学校)には山羊みたいな先生が居る」「草や木の葉を食べるので生活費もほとんどかからないらしい」という噂が広まっていた」「沖縄の自然を愛し、泡盛を愛した。ただ一つ、戦争を憎んだ。10・10空襲で蔵書や標本を失った。教え子も戦争に巻き込まれた。「あの当時、戦場に生徒を動員してバカらしいことをした。自由に遊ばせておけばよかった」。」とあります。園原氏の人となりが伝わってきます。
以上の記事は,「<金口木舌>タンメーが残したメッセージ 」(琉球新報 2020年07月31日)を参照させていただきました。
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