種子島高校の歴史

公開日 2023年09月06日(Wed)

 

tanekopic

 これから種子島高校の歴史を見ていきたいと思います。種子島高校は,その起源である熊毛郡立種子島農林学校創立から数えると,今年で120年目になります。農林学校後幾多の校名変遷を経て,平成18(2006)年に現在の校名となりました。

 種子島高校の歴史について考えることは,現在の本校のルーツを探ることです。鹿児島の教育といえば,江戸時代の郷中教育があります。薩摩藩の青少年教育を指し,イギリス発祥のボーイスカウトの原型とも言われています。6~10歳までの小稚児を,11~15歳の長稚児が生活全般を教え,さらに15~25歳の二才と呼ばれる青年が指導するというものです。明治になってもその伝統は続き,西郷隆盛が征韓論で敗れて鹿児島に下野したあとは,私学校(現城山の鹿児島医療センター)が作られました。県内に 100校以上の分校がありました。種子島にも分校ができました。


 また種子島の学校教育について考えるときに,逸することが出来ない人物は,種子島聖人と言われた,前田豊山です。

前田豊山顔

(出典:鹿児島県教育委員会HP「続・郷土の先人「不屈の心」~小学校下学年用~」より)

 榕城小学校の校内に,豊山の言葉が掲げられています。「信無くんば立たず」重い言葉だと思います。豊山については,別途触れたいと思います。


 ところで,戦前の教育は現在の小・中・高校・大学の単線型とは異なり,複線型と言われ,小学校卒業後は複数の選択肢がありとても複雑です。明治末段階で小学校はほぼ100%の就学率になりますが,その後は旧制中学校(現在の高校),高等女学校,実業学校(工業・商業・農業等),師範学校(教員養成学校)の選択肢がありますが,それらに進学するのは2割ほどとされています。残りの大多数は就職するか,家の農作業を担うことになります。明治後半から農家の子弟や就労者に対しても中等教育をとの動きが高まり,実業補習学校,青年訓練所(軍事教練)が設置され,昭和10(1935)年に両者が統合され,青年学校が誕生します。これが現在の大多数の高校の原型になっていきます。

1930県立種子島農林学校

(種子島農林学校 昭和13(1938年卒業式),出典:平山武章編『写真集明治大正昭和西之表 ふるさとの思い出』,国書刊行会,1983)


 さて,種子島高校の沿革を見ると,おもに4つの流れがあります。すなわち農林学校・種子島実業高校の系統,鹿児島第一中学校(現鶴丸高校)の分校を祖とする旧種子島高校,女学校の系統,職業学校の系統です。

学校変遷について,下のPDFファイルにまとめましたので,ご覧ください。

種子島高の歴史[PDF:183KB]

(変遷図の出典:西之表市教育委員会編『種子島西之表の学校の変遷(内城からはじまる西之表の学校の歴史)』2019.4 を参照して,適宜改変して作成した。)

1935県立種子島農林学校

(種子島農林学校 昭和10(1935年城時代),出典:同上)

1921北種子村立女子職業学校

(北種子村立女子職業学校 大正10(1921年卒業式),出典:同上)

1930西之表町立青年学校

(西之表町立青年学校 昭和8(1933年),出典:『躍進する青年学校』1941)
 今後順次,その歴史を振り返ってみたいと思います。

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