公開日 2024年06月02日(Sun)
前回に続いて,農林学校時代初期について考えてみます。初期メンバー残り3名,最上鹿之助,今村義篤,鳥越源左衛門についてです。
明治38(1905)年3月の第1回卒業生の写真(『鹿児島県立鹿児島実業高等学校創立九十周年記念誌』所集,以下,90周年記念誌)。
中でも,最上鹿之助は最も勤続年数が長く,若い町井校長を支えて,農林学校初期の実質的な立役者だったことが分かります。
【初期メンバーの勤続期間】教員名,期間,勤続年数
町井正路
明治37(1904)年3月 ~ 明治39(1906)年2月
2年間,校長兼教諭
今村義篤
明治37(1904)年4月 ~ 明治40(1907)年?
3年間,教諭
最上鹿之助
明治38(1905)年3月 ~ 大正7(1918)年
13年間,助教諭
鳥越源左衛門
明治38(1905)年 ~ 明治43(1910)年?
5年間,助教諭
園原咲哉
明治38(1905)年 ~ 大正元(1912)年
7年間,雇教員 → 助教諭1906~
最上鹿之助(かのすけ)は,安政6(1859)6月生まれ。明治~大正期に活躍しました。明治10(1877)年の西南戦争に従軍し,前身の私立種子島学校教員(漢学,算数,幾何,代数)となり,明治中期には島主種子島守時の教育係を任じ,明治21(1888)には30歳で鹿児島県会議員に当選し,明治38(1905)年から大正7(1918)年まで,13年間熊毛郡立種子島農林学校に勤めました。
最上の長男は,後の西之表市長の,最上宏(市役所の敷地内に胸像があります)です。最上宏は明治16(1883)年生まれ。長崎医学専門学校卒後帰島し,医療に従事し,北種子島村会議員,熊毛郡会議員,鹿児島県会議員,西之表町長,同市長を歴任し,郷土の発展に寄与し,昭和36(1961)年死去。同氏は父の事績を継承したようです。
(出典は,下野敏見, 鮫島宗美 編
『種子島碑文集 石の文化誌』第1集,熊毛文学会, 1965)
今村義篤(1880?-1914)
明治35(1902)年7月に東洋大学教育部第2科を卒業し,明治36(1903)年山梨県甲府市立甲府商業学校に嘱託教員となり,明治37(1904)年熊毛郡立種子島農林学校教諭となり,同40(1907)年退職(教科は,修身,英語,国語)。大正3(1914)年1月15日無限責任河西信用組合購買組合(山梨県)監事(のち理事)となり,同年12月16日死去。30代で亡くなったようです。
鳥越源左衛門
前歴は不明ですが,明治38(1905)年熊毛郡立種子島農林学校助教諭となり(教科は,物理?,鉱物,農具,土壌,畜産,作物),明治44(1911)年米穀検査所(鹿児島県)監査員,大正7(1918)年同技手,同4月から鹿屋町農会技術員,同11(1936)年鹿児島県米穀商同業組合連合会監督書記となっています。
以上のことから,農林学校初期は,少なくとも5名中3名は,町井校長を含め20代の若い教員で担われていたことが分かります。