種子島高校の歴史 その2 種子島農林学校初代校長町井正路について

公開日 2024年03月19日(Tue)

 種子島高校の歴史 その2 種子島農林学校初代校長町井正路(まちい・まさみち)について

 種子島高校の歴史には,大きく4つの流れがあります。すなわち,1.農林学校系でのちの種子島実業高校,2.旧制中学,旧種子島高校,3.女学校系,4.職業学校系です。
これらが,現在の新設種子島高校につながっていきます。種子島高の歴史[PDF:183KB]参照

 まずは,そのうち,農林学校系をみていきたいと思います。

1.農林学校,種子島実業高校
 (1)農林学校以前 1873~1903(30年間)
 (2)種子島農林学校 1904~1945(41年間) 乙種(修業年限2年制)
 中目時代1904~05,城時代1905~36年,上之原時代1937年~
 甲種(修業年限3年制)に移行1940年~
 (3)戦後~ 1946~1958(12年間)
 (4)種子島実業高校 1959~2008年(49年間)

 中でも, (2)の農林学校時代を見ると,学校所在地により,中目時代(現榕城小学校辺り),城時代(現プラッセだいわ辺り?),上之原時代(現種子島高校所在地)に区分されます。

 三浦安能「種子島農林学校創立沿革史」(昭和17(1942)年7月)(『80周年記念誌』所集)によれば,本校創立の経緯は次のようです。
 種子島の中等教育(現在の中学校,高校段階の教育)は,明治11(1878)年10月第73郷校を廃して,鹿児島中学にならって仮中学を設立し,翌12年に仮中学公立種子島学校となる。同17年9月公立種子島学校と改称し,同23年4月より私立となった。
 明治28,29年以来,県立中学設立の機運が高まり,加納県知事に請願したが許可が得られなかった。その間川内,川辺,加治木,鹿屋に県立中学が設立されたが,熊毛郡に設立がないことを遺憾として,郡民の熱意が高まり,県当局を動かして,明治33年千頭知事が種子島中学校分校設立案を県会に提出されたが,否決された。
 その理由は,中学校が地方に散在するのは,生徒募集上,経済上不利益で,中央に集中した方が得策である。また中学の増設は高等遊民を作るもとになるので,地方にはむしろ実業教育を奨励した方が良い,ということである。
 そのため,種子島中学分校設立案は廃され,その結果郡立種子島農林学校が生まれることになった。なお県立中学は,大正15(1926)年に実現することになる。のちの旧種子島高校である。

 下は,明治38(1905)年3月の第1回卒業生の写真(『鹿児島県立鹿児島実業高等学校創立九十周年記念誌』所集,以下,90周年記念誌)です。

1町井90周年

 「学校日誌 明治38~40年」(80周年記念誌所集)によれば,この時の卒業生は26名で,最前列中央5名が当時の職員である。すなわち町井正路校長兼教諭(最前列中央で,足を組んでいる),教諭今村義篤,助教諭鳥越源左衛門,雇園原咲哉,助教諭兼書記最上鹿之助の5名です。
 熊毛郡立種子島農林学校初代校長である,町井校長はとても若く,当時27歳です。右から2番目の和装の人物が,最年長の最上鹿之助だろうと思われるが,残り3名は不詳です。
このうち最も事績が知られるのは,町井校長なので以下見ていきたい。

 町井正路年譜

No. 年月日 事 績 出 典
1 明治11(1878)年
1月20日
0 町井勝太郎の長男として,花輪谷地田町(現秋田県鹿角市)に出生 鹿角人物辞典(2020年)
2 明治18(1885)年 7 父勝太郎が職を,鉱山測量から鉄道測量に転じ,一家を挙げて上京 松木博2008※
3 明治29(1896)年 18 東京府尋常中学校(現都立日比谷高校)卒業 松木博2008
4 明治29(1896)年 18 札幌農学校入学 松木博2008
5 明治30(1897)年
7月7日
19 札幌農学校予科卒業 第11期 官報
6 明治34(1901)年
7月9日
23 札幌農学校本科卒業 第19期 農事雑報37
7 明治34(1901)年
10月3日
23 中学校教員免許(博物(植物))取得 免許台帳抄
8 明治35(1902)年
4月1日
24 山形県立村山農学校教諭に任命される(もと茨城県立下妻中学校教諭)。病気療養のため,同4月30日辞任 教育界1(7)
興農雑誌94
官報
9 明治35~36年 25 工芸作物等について各種論文を発表 興農雑誌 
10 明治37(1904)年
3月15日
26 養畜教科書』(興文社)著す 同書
11 明治37(1904)年 26 熊毛郡立種子島農林学校(1904.4.1開校) 教授嘱託(手当年800)学校長心得に任命 職員録 明治37年(乙)
12 明治37(1904)年
9月12日
26 熊毛郡立種子島農林学校校長兼教諭に任命,11級俸下賜される 官報
13 明治39(1906)年
2月19日
28 校長兼教諭を辞任(在勤約1年半)。明治38年中度々欠勤あり 学校日誌
教育界5(6)
14 明治39(1906)年
11月20日
28 実地応用常食用作物栽培法』(耕牧園)著す 同書
15 明治42(1909)年
7月24日
31 実用工芸作物栽培法』(日本種苗出版部)著す 同書
16 明治44(1911)年 33 この頃,東京硫安株式会社(肥料会社)の取締役,同10月24日辞任 日本全国諸会社役員録,官報
17 大正元(1912)年
7月15日
34 ファウスト』(ドイツ人ゲーテ作,町井翻訳,本邦初)著す 同書
18 大正10(1921)年 43 ふらんすの女』(青柳有美作,町井翻訳,上方屋出版部)著す 同書
19 大正11(1922)年
9月15日
44 都市計画と汚物処理』(町井式都市汚物処理試験場事務所)著す 同書
20 大正12(1923)年
1月6日
45 都市計画と汚物処理再版(町井事務所出版部)著す 同書
21 昭和21(1946)年 68 死去,享年68歳 鹿角人物辞典

 上表により,町井校長は,秋田県生まれ,父転職により東京移住,札幌農学校へ入学。卒業後農学校等の教諭を経て,熊毛郡立種子島農林学校校長に就任するも,わずか1年半で辞任。その後は各種農業専門書を多数執筆したり,肥料会社に勤務しました。中でも注目すべきは,ドイツの文豪ゲーテの代表作『ファウスト』を翻訳したことです。

 その間の事情は,日本近代文学の研究者である,大妻女子大学短期大学部国文科教授松木博氏の論文「森鷗外と町井正路 二つの「ファウスト」、その翻訳と受容」(大妻国文 (39),2008.3)に詳しい。通常『ファウスト』の翻訳は,森鷗外訳が完全訳としては本邦初で,決定版とされるが,実は半年前に,町井校長が自費出版の形で出版しており,しかも極めて異例なことに,お互いの存在を意識しつつ出版されたという。
 彼は,札幌農学校時代に,新渡戸稲造の講義を聴いて,『ファウスト』翻訳を志したとされ,文学の専門外の自分だが,原文でゲーテの「ファウスト」を読むときの参考書になればとして,翻訳したという。彼とドイツ文学との関わりは不明だが,新渡戸が農政学でドイツ留学をしているので,ドイツとの関わりがあり,翻訳に繫がったのだろう。
 また種子島との関わりも全く不明で,札幌農学校時代の同期に,有島武郎(白樺派の小説家,元薩摩藩士有島武の長男,札幌農学校教師)があり,その縁もあったかもしれません。
 町井『ファウスト』自序に,「~学校(札幌農学校)を卒へて,一時某々の学校に教鞭を執り,次で某々専門校(種子島農林学校か)の主理者(校長か)に任ぜられた~」と書かれてあり,種子島農林学校校長勤務を示唆しています。

 彼の周辺には,森鷗外,新渡戸稲造,有島武郎などがあり,近代史上の有名人と関わりがあったことが分かります。

町井44才

大正11(1922)年9月(44才)
『都市計画と汚物処理』所集の著者近影

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